地福寺(気仙沼)

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2015年2月6日金曜日

涅槃会(二月十五日)について

お釈迦様はヒマラヤのふもとカピラ城にお生まれになり、二十九歳で出家し、三十五歳で悟りを開かれました。それから四十数年間、ガンジス河流域を中心に、北インドの町から村へと教えを説き歩かれました。そしてすでに八十歳を迎えられたお釈迦様は、自らの最期のときが近づいたことを察し、商業都市ヴァイシャーリの町から最後の地クシーナガラへ向かうために、ガンジス河を渡られました。

その道中、クシーナガラの近くのパーヴァの町で、激しい下痢を伴う重病にかかられたのです。あるいは赤痢だったのかも知れません。それでも苦痛をこらえながら、阿難(アナン)たちの助けを借りてやっとクシーナガラに入られた釈尊は、マツラ族のウパヴァッタナのサーラの樹林に入られました。

「阿難よ、私のためにサーラ双樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を敷きなさい。私は疲れた。横になろう」と床を敷かせ、「この世で常住なるものは何もない。これが世のすがたなのだから、精進して早く生死の苦悩から解脱しなさい」と最後の教えを弟子達に告げられ、右脇を下にし、足を重ねて横になり、禅定に入られたまま、涅槃に入られました。時、まさに二月十五日の夜半でした。

付き従う人たちの悲しみと歎きは、いかばかりであったか。仏典には「その時、大地が振動し、人々の身の毛がよだち、天上では自然の音楽が鳴った」とあります。

この二月十五日を、わたしたち仏教徒は「涅槃会」と称し、四月八日の降誕会(ごうたんえ、花祭り)、十二月八日の成道会(じょうどうえ)と共に、三仏忌(さんぶっき)として、毎年、各寺院で報恩の法要を営み、お釈迦様の偉徳を讃えるのです。

この行事には「涅槃図」を掲げますが、そこには人間だけでなく、鳥や獣、虫に至るまでが涅槃に入られた釈尊の回りに集まり、嘆き悲しんでいる様子が描かれています。

「涅槃」という言葉は梵語の「ニルヴァーナ」の音訳で、元、吹き消すという意味です。すなわち、迷いや煩悩の炎を吹き消すことで、もはや悩みも苦しみもない世界にはいることです。

涅槃会の起源


二月十五日はお釈迦様が、インドの沙羅樹林で八十歳を一期として入寂された日です。この日、全国の寺院では涅槃会(ねはんえ、涅槃図がかけられ、追慕と報恩の法会)が営まれます。
※涅槃忌、仏忌(ぶっき)、常楽会(じょうらくえ)、遺教会(ゆいきょうえ)、訓読会(くんどくえ)などとも呼ばれ、月遅れの三月十五日に営む寺院もあります

涅槃とは梵語のニルヴァーナの音写で、漢語では滅、寂滅、滅度、円寂などに訳されます。煩悩の火が吹き消された完全なる安らぎをいい、悟りの究極の境地を意味します。

涅槃像について


お釈迦様が涅槃に入られる時の姿を描いたものを涅槃像(涅槃図)と言います。

この絵像には立ち並ぶ沙羅樹の半分が枯れているのですが、お釈迦様の入滅に樹も悲しみ殉じたものだといわれています。また、もう半分の沙羅樹が枯れずに青々としているのは、母、摩耶夫人が兜率天(とそつてん、天上界)から雲に乗って回生の霊薬をもたらされたが、間に合わないので従者に投下させられた時に、樹に引っかかりその霊気を感じて蘇生したためといわれています。

この沙羅双樹の半分枯れ、半分蘇生した姿を「四枯四栄」(しこしえい)と言い、右側の四本は幹・葉とともに黄色または白(鶴林かくりんとも言う)で枯れる姿をあらわし、左側の四本は幹、葉とも緑色で青々とした世紀をあらわしており、また赤色で描かれている場合もありますがこれは栄えるという意味です。
※葬式で白と赤の紙華を供えるのは、この「四枯四栄」をあらわしたものです

また、中央に宝床を設け、お釈迦様が右脇を下にして臥され、それを取り巻く弟子や菩薩、諸天善神から鳥獣昆虫に至るまで、一様に嘆き悲しむ様子が描かれていますが、これは三界一切の生き物をあらわしたもので、仏教が人間だけを救いの対象としていない、ということがよくわかります。

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